第三章.反旗 ―1― [哀歌を詞う、小鳥達【完結】]
ロイスダール公爵夫妻が何者かに暗殺されてから、四年余り。三年余月前――セルレインは、父母の死による混乱が収まるのを待ち、爵位を継いだ。
父に兄弟姉妹はなく、協力を申し出て来た遠い血縁の者達には全て断りの返事を出した。彼らの目当てが何であるかは、わかりきっていたからだ。覚悟はしていたものの、醜い現実に悲しさと虚しさを覚える日々。そんな毎日の中で、相変わらず無邪気なミレーネはセルレインの心を随分癒してくれた。アルスから、姫がセルレインに近づきたい一心で、難解な学問を学んでいると聞かされて、愛しさが募る。
四年前には感じる事のなかった、一生持つ事はないと思っていた愛情が、今、己の心にある。
当時、彼はミレーネが幼すぎてと思っていた。けれども、それは自分も同じだったのだ。
芽生えたばかりの愛情を相手に伝える事はとても難しく、二人の関係は今も変わらない。しかし、最近セルレインは、こう思うまでにミレーネを信じるようになっていた。
彼女ならば、私が魔族であると知っても、私を愛してくれるかも知れない――と。
薄汚れた路地を、急ぎ足で一人の男が歩いていた。彼は両腕で抱えきれぬ程の淡い色の花を、大切そうに抱えている。
男が纏うのは、夜空を切り取ったような藍色のマントだ。その中から、時折見え隠れする上下服も、同じ色をしている。
伸ばしすぎた前髪が眼にかかることを厭うように、彼は度々首を振って黒に見える髪を振り払っていた。生来の色が何色であるのかは、夜闇に包まれた街灯のない路地のことで曖昧である。三十代の前半であろうか、未だ青年らしさを残す面影に、ちらりと憂鬱の影が降りる。彼の唇から、切ないような嘆息が漏れた。
目的の地が目の前になった今、彼の脳裏に昨晩の出来事がまざまざと蘇ってきたのだ。
昨晩、彼は長い付き合いの女性に結婚を申し込んだ。お互い、この大陸で言う適齢期はとうに越していたが、特に形式にこだわることはせず今まで暮らしてきたのだ。
しかし、男は仕事の都合で生まれ育ったこの町を去ることになった。当然のように彼は、これを期にけじめをつけようと考えた。お互いの気持ちは明白であったし、ひとつの返事だけを信じていた。
が、彼の予想は裏切られた。彼女は首を縦には振らなかったのだ。そればかりか、自分の元にはもう二度と来ないで欲しいとまで言い放ったのだった。
声が震えていた。共に最後まで生きて欲しいのだと、告げた瞬間の彼女の瞳は喜びに満ちていた。
だからこそ、それが彼女の本意でないことはわかっている。
女心は複雑だからな、などとのん気に考え、男は今宵、改めての申し出をするために彼女の家へと急いでいるのだ。今日は機嫌をそこねぬように、細心の注意を払おう。そんなことを思いながら、たどり着いた家の戸を開く。
そこで、彼は凍りついたように動きを止めた。入るべき家を間違えたのか。そんな間抜けな思いが彼の頭をよぎる。否、そう思いたかったのかもしれない。
小汚い路地裏の突き当たりに、この平屋は建っている。荒れ果てた感のあるこの一帯の中でも、殊更に建て付けの悪い家だった。彼は裕福な家庭の生まれのため、彼女の家を訪ねるようになった当初には、足を踏み入れることに相当の覚悟を要したものだ。
男の全身から力が抜けた。抱えていた薄紫の花が、はらはらと宙に舞う。
朽ちかけた木の床に、花弁が散った。辺り一面に飛び散った紅い雫に、薄紫の花びらが溶けていくようだ。
男は呼吸さえも忘れてしまったかのようにその場に佇んでいたが、ふと我に返った様子で室内をぐるりと見渡した。台所から寝室まで全てが一部屋の彼女の家は、戸口から隠れる部分などない。唯一、風呂場だけは布を仕切りにしてあったが、今は大きく開け放たれていた。
夕刻を過ぎ、日の光は完全になくなっている。室内を照らす頼りは、壊れかけた机の上にある小さな真鍮の燭台のみだった。家の中が、尋常でなく荒れている。元から片付けの得意な女性ではなかったのだが、これは明らかに第三者に荒らされた跡だ。必要最低限の家具類は倒され、ふちの欠けた食器類は粉々に砕かれていた。衣類なども裂かれ、無造作に投げ出されている。彼が彼女のために置いて行った数々の品物は綺麗に持ち去られていた。そして――あちらこちらに付着している血痕。これは何だというのか。
呆然としながらも、彼は一歩、家の中に足を踏み入れる。彼の足が床の上に散った花を容赦なく踏みにじったのだが、彼はそんなことには気づきもしない。ただ一点を見つめていた。
視線の先には、机の脚に力なくもたれかかる女がいる。燭台の弱々しい光に照らされ、彼女の姿が震えるように揺れていた。男よりは十歳ほど年若く見える、美しい顔立ちの女だ。相当な深手を負っており、各所の傷からは流血が酷い。骨を折られているのか、腕などはあらぬ方向に捻じ曲がっていた。息をすることすら苦しげで、その生命の灯火が急速に消えかけていることがわかる。
彼は恐る恐る女の肩に触れた。ぬるりとした嫌な感触が、彼の手のひらに伝わる。
「何だと……」
様々な思いが頭を巡った。けれども、何一つとしてきちんとした言葉にならない。彼は己の奥歯がなるのを感じた。かみ合わない歯が、がちがちと耳障りな音をたてている。
男は、乱暴にも思える仕草で彼女を己に抱き寄せた。陶磁器のように白い彼女の頬が、燭台の灯を受けてもなお青白く冷たい。彼は唇を噛み締めた。耳障りなこの音を、とにかく止めたかった。
「何故だ」
誰にともなく、そう呟く。誰が、こんな理不尽なことを予想しただろう。誰が、こんな苦しみを負わせるのだろう。誰にともなく、そう問わずにはいられない。
震えてうまく動かない指先で、彼は彼女の頬を撫ぜた。乱れた金の長い髪を、そっと梳いてやる。
彼女は眼を閉じたまま、彼に語りかけた。
「恨まないで」
微かに、微笑さえ浮かべてそう繰り返す。
「誰が悪いわけでもないから」
穏やかなその声に、彼の怒りは募るばかりだった。
――誰かが悪いわけではない? ならば、何故、おまえが殺されねばならない?
沸々と、やり切れぬ想いが胸を満たす。それでも彼女は、必死に彼に説いて見せた。
「この世界の歪みなの。かつて、魔族は人族に酷いことを。その報復が続いているだけ。これが、魔族に生まれてしまったあたしの宿命だから」
――そんな宿命は認めない! 未来永劫、魔族は黙って罪を償うのか? こんな理不尽を受け入れるというのか?
彼は神聖魔法の使い手だった。しかし、彼ら神官には、消えていく命を繋ぎ止める力は与えられていないのだ。己の無力を思い知り、彼は慟哭した。
「だって、受け入れるより他にない」
次第に弱くなる声で、彼女は小さく呟いた。重たそうに瞼を開き、彼の姿を探す。しかし、その瞳には既に光がなく、何も映すことは出来なかった。彼女の紫色の双眸が、鮮やかに煌いている。
「あなたは、あなたの成すべきことを果たして。あたしのことは、もうここで忘れてしまっていいから」
そんなことが出来るわけがない。そう言おうとした彼の手を、彼女が強く掴んだ。そして、ゆっくりと己の唇にあてがう。
ぎりりと歯をたてられ、男は眉間に皺を寄せた。何をするのだと文句を言う間もなく、彼女が傷口から滴る己の血を啜る様を目にする。驚愕して言葉を失くしているうちに、彼女は震える手を彼に差し伸べた。鮮血がつたい落ちるのを示し、視線だけで飲むように促す。
呆気にとられながらも、彼はそれに従った。不思議と拒絶する気持ちが起こらなかったのだ。
苦い鉄の味が口内に広がる。何故、と問うように彼は、再び瞳を閉じた恋人の顔を見つめた。
「あなたに、あたしの力を。あたしはあなたと共にあるから。だから……復讐なんて、決して考えないで。あなたには輝ける未来があるんだから」
未来なんていらない。彼は強くそう想った。その思いを察したのだろうか、彼女の表情が薄っすらと陰りを見せる。
「復讐なんて、虚しいだけなの」
掠れる声で懸命に訴えるが、自分を抱くその人には声が届かない。こんなにも近い場所にいて、それでも彼の心は既に遠くあるようだった。
――私は、絶対に許さない。この世界も、おまえを手にかけた奴らも。絶対にだ。
焦点の定まらぬ眼でそう呟いた時、彼はその視界が揺らぐのを感じる。意識が、抗えぬ何かに浚われていくようだ。それでも男は、炎を映し赤く燃える瞳で瞬きを繰り返しながらそれに耐える。しかし、ついに堪えきれず、彼の体が血溜まりの中に倒れた。
「お願い……。あなたは強い人じゃないから。復讐なんて……」
あなたの心が壊れてしまう。そう、声にならない声で囁いて、遠のいていく意識の中、彼女は静かに涙を流していた。
重なり合うようにして倒れる二人の身体を、紫銀の光が包み込む――。
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父に兄弟姉妹はなく、協力を申し出て来た遠い血縁の者達には全て断りの返事を出した。彼らの目当てが何であるかは、わかりきっていたからだ。覚悟はしていたものの、醜い現実に悲しさと虚しさを覚える日々。そんな毎日の中で、相変わらず無邪気なミレーネはセルレインの心を随分癒してくれた。アルスから、姫がセルレインに近づきたい一心で、難解な学問を学んでいると聞かされて、愛しさが募る。
四年前には感じる事のなかった、一生持つ事はないと思っていた愛情が、今、己の心にある。
当時、彼はミレーネが幼すぎてと思っていた。けれども、それは自分も同じだったのだ。
芽生えたばかりの愛情を相手に伝える事はとても難しく、二人の関係は今も変わらない。しかし、最近セルレインは、こう思うまでにミレーネを信じるようになっていた。
彼女ならば、私が魔族であると知っても、私を愛してくれるかも知れない――と。
薄汚れた路地を、急ぎ足で一人の男が歩いていた。彼は両腕で抱えきれぬ程の淡い色の花を、大切そうに抱えている。
男が纏うのは、夜空を切り取ったような藍色のマントだ。その中から、時折見え隠れする上下服も、同じ色をしている。
伸ばしすぎた前髪が眼にかかることを厭うように、彼は度々首を振って黒に見える髪を振り払っていた。生来の色が何色であるのかは、夜闇に包まれた街灯のない路地のことで曖昧である。三十代の前半であろうか、未だ青年らしさを残す面影に、ちらりと憂鬱の影が降りる。彼の唇から、切ないような嘆息が漏れた。
目的の地が目の前になった今、彼の脳裏に昨晩の出来事がまざまざと蘇ってきたのだ。
昨晩、彼は長い付き合いの女性に結婚を申し込んだ。お互い、この大陸で言う適齢期はとうに越していたが、特に形式にこだわることはせず今まで暮らしてきたのだ。
しかし、男は仕事の都合で生まれ育ったこの町を去ることになった。当然のように彼は、これを期にけじめをつけようと考えた。お互いの気持ちは明白であったし、ひとつの返事だけを信じていた。
が、彼の予想は裏切られた。彼女は首を縦には振らなかったのだ。そればかりか、自分の元にはもう二度と来ないで欲しいとまで言い放ったのだった。
声が震えていた。共に最後まで生きて欲しいのだと、告げた瞬間の彼女の瞳は喜びに満ちていた。
だからこそ、それが彼女の本意でないことはわかっている。
女心は複雑だからな、などとのん気に考え、男は今宵、改めての申し出をするために彼女の家へと急いでいるのだ。今日は機嫌をそこねぬように、細心の注意を払おう。そんなことを思いながら、たどり着いた家の戸を開く。
そこで、彼は凍りついたように動きを止めた。入るべき家を間違えたのか。そんな間抜けな思いが彼の頭をよぎる。否、そう思いたかったのかもしれない。
小汚い路地裏の突き当たりに、この平屋は建っている。荒れ果てた感のあるこの一帯の中でも、殊更に建て付けの悪い家だった。彼は裕福な家庭の生まれのため、彼女の家を訪ねるようになった当初には、足を踏み入れることに相当の覚悟を要したものだ。
男の全身から力が抜けた。抱えていた薄紫の花が、はらはらと宙に舞う。
朽ちかけた木の床に、花弁が散った。辺り一面に飛び散った紅い雫に、薄紫の花びらが溶けていくようだ。
男は呼吸さえも忘れてしまったかのようにその場に佇んでいたが、ふと我に返った様子で室内をぐるりと見渡した。台所から寝室まで全てが一部屋の彼女の家は、戸口から隠れる部分などない。唯一、風呂場だけは布を仕切りにしてあったが、今は大きく開け放たれていた。
夕刻を過ぎ、日の光は完全になくなっている。室内を照らす頼りは、壊れかけた机の上にある小さな真鍮の燭台のみだった。家の中が、尋常でなく荒れている。元から片付けの得意な女性ではなかったのだが、これは明らかに第三者に荒らされた跡だ。必要最低限の家具類は倒され、ふちの欠けた食器類は粉々に砕かれていた。衣類なども裂かれ、無造作に投げ出されている。彼が彼女のために置いて行った数々の品物は綺麗に持ち去られていた。そして――あちらこちらに付着している血痕。これは何だというのか。
呆然としながらも、彼は一歩、家の中に足を踏み入れる。彼の足が床の上に散った花を容赦なく踏みにじったのだが、彼はそんなことには気づきもしない。ただ一点を見つめていた。
視線の先には、机の脚に力なくもたれかかる女がいる。燭台の弱々しい光に照らされ、彼女の姿が震えるように揺れていた。男よりは十歳ほど年若く見える、美しい顔立ちの女だ。相当な深手を負っており、各所の傷からは流血が酷い。骨を折られているのか、腕などはあらぬ方向に捻じ曲がっていた。息をすることすら苦しげで、その生命の灯火が急速に消えかけていることがわかる。
彼は恐る恐る女の肩に触れた。ぬるりとした嫌な感触が、彼の手のひらに伝わる。
「何だと……」
様々な思いが頭を巡った。けれども、何一つとしてきちんとした言葉にならない。彼は己の奥歯がなるのを感じた。かみ合わない歯が、がちがちと耳障りな音をたてている。
男は、乱暴にも思える仕草で彼女を己に抱き寄せた。陶磁器のように白い彼女の頬が、燭台の灯を受けてもなお青白く冷たい。彼は唇を噛み締めた。耳障りなこの音を、とにかく止めたかった。
「何故だ」
誰にともなく、そう呟く。誰が、こんな理不尽なことを予想しただろう。誰が、こんな苦しみを負わせるのだろう。誰にともなく、そう問わずにはいられない。
震えてうまく動かない指先で、彼は彼女の頬を撫ぜた。乱れた金の長い髪を、そっと梳いてやる。
彼女は眼を閉じたまま、彼に語りかけた。
「恨まないで」
微かに、微笑さえ浮かべてそう繰り返す。
「誰が悪いわけでもないから」
穏やかなその声に、彼の怒りは募るばかりだった。
――誰かが悪いわけではない? ならば、何故、おまえが殺されねばならない?
沸々と、やり切れぬ想いが胸を満たす。それでも彼女は、必死に彼に説いて見せた。
「この世界の歪みなの。かつて、魔族は人族に酷いことを。その報復が続いているだけ。これが、魔族に生まれてしまったあたしの宿命だから」
――そんな宿命は認めない! 未来永劫、魔族は黙って罪を償うのか? こんな理不尽を受け入れるというのか?
彼は神聖魔法の使い手だった。しかし、彼ら神官には、消えていく命を繋ぎ止める力は与えられていないのだ。己の無力を思い知り、彼は慟哭した。
「だって、受け入れるより他にない」
次第に弱くなる声で、彼女は小さく呟いた。重たそうに瞼を開き、彼の姿を探す。しかし、その瞳には既に光がなく、何も映すことは出来なかった。彼女の紫色の双眸が、鮮やかに煌いている。
「あなたは、あなたの成すべきことを果たして。あたしのことは、もうここで忘れてしまっていいから」
そんなことが出来るわけがない。そう言おうとした彼の手を、彼女が強く掴んだ。そして、ゆっくりと己の唇にあてがう。
ぎりりと歯をたてられ、男は眉間に皺を寄せた。何をするのだと文句を言う間もなく、彼女が傷口から滴る己の血を啜る様を目にする。驚愕して言葉を失くしているうちに、彼女は震える手を彼に差し伸べた。鮮血がつたい落ちるのを示し、視線だけで飲むように促す。
呆気にとられながらも、彼はそれに従った。不思議と拒絶する気持ちが起こらなかったのだ。
苦い鉄の味が口内に広がる。何故、と問うように彼は、再び瞳を閉じた恋人の顔を見つめた。
「あなたに、あたしの力を。あたしはあなたと共にあるから。だから……復讐なんて、決して考えないで。あなたには輝ける未来があるんだから」
未来なんていらない。彼は強くそう想った。その思いを察したのだろうか、彼女の表情が薄っすらと陰りを見せる。
「復讐なんて、虚しいだけなの」
掠れる声で懸命に訴えるが、自分を抱くその人には声が届かない。こんなにも近い場所にいて、それでも彼の心は既に遠くあるようだった。
――私は、絶対に許さない。この世界も、おまえを手にかけた奴らも。絶対にだ。
焦点の定まらぬ眼でそう呟いた時、彼はその視界が揺らぐのを感じる。意識が、抗えぬ何かに浚われていくようだ。それでも男は、炎を映し赤く燃える瞳で瞬きを繰り返しながらそれに耐える。しかし、ついに堪えきれず、彼の体が血溜まりの中に倒れた。
「お願い……。あなたは強い人じゃないから。復讐なんて……」
あなたの心が壊れてしまう。そう、声にならない声で囁いて、遠のいていく意識の中、彼女は静かに涙を流していた。
重なり合うようにして倒れる二人の身体を、紫銀の光が包み込む――。
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